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日本語と論理(3)

2010/02/08 01:40

 

     またまた間があいてしまいました。前回のエントリでは、矛盾が気づかれにくいのは日本語の特徴と関係があるのではないかと考えたのでした。日本語が論理的じゃないと考える人がいるのも、ひょっとしたらそのことと関係があるのかもしれません。もちろん、日本語が論理的な言語じゃないという主張は、たとえば日本語で書かれた論理学の本を読んでも言えることなのかという疑問をつきつけることができます。結局は、日本語を使う人が論理的に使っていない場合があるだけではないかという疑問です。何語であっても、論理的に考えていない人が論理的に使うことができなくても不思議はありません。

    また、前回ひとの言うことを詭弁呼ばわりする人がいることに触れましたが、よく人の言うことを矛盾していると言って批難する人もいます。しかし、それがほんとうに矛盾であるかどうかは、つきつめて論じられないことが多いようです。よくある間違いは、言われている内容がなんらかの対立関係にある場合に、ただちに矛盾だと断じる場合ですね。麻生前首相がブレたという大合唱を繰り広げたマスゴミが、ようやく鳩ポッポ首相のブレというか矛盾をつき始めたようですが、言うまでもなく、ブレよりは矛盾のほうが深刻です。麻生さんの「ブレ」については、マスゴミが必死でブレたことにしたかったのだという印象ばかりがあります。矛盾というのは、繰り返しになりますが、両立しないということです。小沢民幹事長の資金についての説明で同じ問題について三通りの両立しない説明をあたえても、マスゴミがその矛盾を衝かないのは、知能程度が疑われます。
    ついつい話がそれてしまいますが、矛盾があっても矛盾と気がつかない、矛盾がないのにブレたと言って批難する、これはどういう頭脳構造、あるいは思考能力に起因するのでしょうか。それが日本語の特徴とも関わっているのではないかというのが予想でした。僕が日本語の特徴として考えていることの一つは、抽象概念を取り扱うことが不得手なのではないかということです。実際には、中国韓国における、新しい抽象概念を表わす言葉は、日本人がヨーロッパの言語の習得と、漢字リテラシーの高さによって作り出したものに由来するものが沢山あります。そういう意味では、日本語が抽象概念を表わすのに不適格な言語ということはありません。
    ただ、抽象概念を日本語を用いて考えることは、論理的思考力と言語能力の両方を必要とします。それはいずれも訓練を要するものですが、その訓練が十分だとは思えないのです。国語の授業で読解力を育てると言っても、このとき主人公はどう思ったかなどという類いの愚問にさらされていては、生徒は抽象的な概念を理解することからも、論理を身につけることからも遠ざけられてしまうに違いありません。ひとと議論をしようにも、相手がどう思うかという想像力ははたらいても、相手の主張を正確に理解することも、それが論理的に正しいかを判断することもできなければ、議論にも何にもならないでしょう。
    これは国語教育の問題であって、日本語の特質の問題ではないと指摘されるかもしれません。もちろん、教育がしっかりしていれば克服できる問題だと言えるでしょう。しかし、よほどしっかりした教育をしなければ、ある程度高度な日本語を論理的に使う能力は育たないというのが、僕が指摘したいことなのです。それは、おそらく日本語のコアにある、いわゆるやまと言葉が、情緒を表現するには適しているが、論理を表現するには向いていないという特徴をもっているからでしょう。たとえば矛盾ということを和語だけで説明しようとすると、どうなるでしょうか。「ほことたて」と言っても矛盾の意味にはとられないでしょうし、「両立しないこと」だと漢語が入るので、「ともにはなりたたないこと」とでも言えば通じるかもしれませんが、回りくどくて実用にならないという印象を受けます。結局、漢字をとり入れて語彙を拡大することによって、日本語の機能性を高めることになったのが、日本語のたどった歴史的経緯でしょう。
    ところが、語彙が増えた分、さまざまな単語に習熟しなければ使いこなすことが難しくなります。豊富な語彙が、消化不良を引き起こしていると言ってもいいでしょう。戦後の漢字制限に代表される愚策が、さらにその傾向に拍車をかけて、日本人の漢字リテラシーは低下しました。そのことによって、日本語を論理的に使う能力も低下したという側面もあります。しかし、大和言葉の特徴が、いまだに尾を引きずっているところも無視できないでしょう。抽象名詞を使うとき、よく「〜ということ」とか「〜というもの」という言い方をします。たとえば「論理は思考の道具である」と言ってもいいときに「論理というものは〜」という言い方をしたり、「矛盾は二つ以上のことが同時には成立しないことである」と言うときに「矛盾ということは〜」と言ったりするでしょう。これは、日本語の名詞が抽象概念を示すのは通例ではないため、わざわざ抽象名詞であることを表わす言い回しをしているのだと考えられるのです。

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日本語と論理(2)

2010/01/01 12:50

 

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

    前回のエントリは、コメンテーターに言及したために話しがそれてしまいましたが、論理的であるとはどういうことかを考えようとして、論理的でない場合を想像してみると、論理の飛躍があっても必ずしも誰でも気づくわけではないこと、それを気づきにくくさせている状況があることを書こうとしたのでした。
    論理の飛躍がないと言うことは、論理がつながっていること、すでに言われたこと(+言外に了解されていること)から帰結が導きだせるということです。それを確認しようとすると、論理的な思考力だけでなく、注意力も集中力も必要になります。騙そうとする人にとっては、そこが付け目だと言えるでしょう。
    相手を騙すために用いる、論理的には正しくない議論は、詭弁とも呼ばれます。詭弁は容易に気づかれないからその役割をはたすことができるわけですが、そのことを逆手にとって、自分の詭弁を隠すために、相手の議論を詭弁呼ばわりする人がいます。相手が真面目であればあるほど、詭弁呼ばわりされた議論が正しいことを示そうとして躍起になるでしょうが、詭弁を述べた人のほうは、その間は自分の議論の欠陥を指摘されることから逃れることができるわけです。
 
    もう少し話しを先に進めましょう。論理的に正しくない場合のもう一つは、矛盾がある場合です。矛盾とは、論理的には両立不可能性と言い換えてもいいでしょう。故事成語として『韓非子』の寓話をもとに考えてもいいかもしれません。つまり、武器商人が誇大宣伝をして、自分の売るホコはどんなものでも貫き通す、自分の売るタテはどんな攻撃でも防ぐと言ったので、見物人の一人がその矛でその盾を突いてみせろと言ったという話ですが、この誇大に宣伝された矛と盾とは両立不可能であるわけです。
    しかしここでも、気の利いた見物人が実演を要求したから、その両立不可能性が明らかになったわけで、それまでの観客は、眉に唾をつけていたかもしれませんが、あからさまには矛盾と意識せずに聞いていたのではないでしょうか。それと同じようなことは、近頃のメディアのあり方にも見ることができます。今の首相のことは、ネットの中でこそ鳥頭とか、三歩歩けば……とか言われていますが、朝と午後と夕方でそれぞれ両立しないことを言っても、メディアからはそれを指摘する声が聞かれることが少ないのです。そして矛盾も、上の故事のように、それが矛盾することを指摘しなければ、必ずしも人びとに意識されないのです。
    これも昨日のコメンテーターへの批判と同じことになりますが、メディアの人間がその矛盾に気づいていないのであれば、そんな知性の欠如したメディアは不要というか、むしろ有害だし、気づいているのに指摘しないのであれば、意図的な歪曲報道であり、放送法違反に当たるでしょう。放送法違反は現実には適用されることがなく、ザル法になってしまっているので、マスゴミには前者のほうの批判を突き付けるほうが有効だと思いますが、いずれにしても目に余る現状です。
    なにやら、昨日の繰り返しになってしまったようですが、こういうことは、つまり矛盾したことを言っても見逃されると言うことは、たとえば欧米では起こりにくいことではないかという疑問があります。日本人の思考の欠陥なのか、あるいは日本語の特徴に起因することなのか、後者の可能性を示唆する意見に触れたので、その点について少し考えてみたいと思います。

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日本語と論理

2009/12/31 20:20

 

    長らく更新が滞っていました。最大の原因は多用ということですが、問題は物理的な時間だけではなく、むしろ心のもち方のほうが大きいような気がします。細切れの時間のなかで情報を集めることも、定期的に訪問するサイトの記事を読むことも続けてはいました。そこから自然に出てくる感想は、今日本は大変な状況になっているという、まったく月並みなものですが、空恐ろしいことには、そういう危機意識をもっている人はあまりにも少ないように見えるのです。
    危機意識のない人に現状の問題点を理解させることは簡単ではありません。いきなり自分が考えていることをストレートに言ったら、こっちがおかしくなったと思われる可能性があるのです。ふつうに話しあって、相手が間違ったことを言ったら、表現は努めておだやかにしながら、断固として反論すると、相手にこちらの真剣さは伝わります。たいていマスゴミの言っていたことを言うだけの人が多いので、ネットでいろんな言論を経験していれば、突っ込みどころはあるのです。ただし、そこまで話しが進まないことも少なくありません。
    そのような口コミで今の状況の危機を伝えることができるのは、数としては限られています。ブログで情報・意見を発信することは、そういう限界を超えることができるのも確かなことです。ただし、僕のブログを訪問して下さる方は、リンクを貼って下さっているべつのブログから来られるか、検索に引っかかったのか、その類いの方が多いだろうと思います。そうだとすると、今の危機的状況については。すでに認識しておられる方が大部分でしょう。だとすると、僕が現在の日本について警鐘を鳴らしても、それほど効果はないと思います。
    更新が滞った背景には、そういう思いもありました。それと表裏一体の理由としては、さまざまなブログが、適切かつ有効な仕方で今の危機的状況を理解させ、問題のありかを指摘し、人々の認識をまっとうな方向に導いていこうとしていることがあります。それと同じことをしようとしても、新しい成果は得られないでしょう。そういうこともあって、時事的な話題でもエントリをあげたい思いはありましたが、忙しさのほうが勝つ結果になったのです。
    このブログの最初からの目標は、そういう時事的な問題について論じることではありませんでした。きっかけは前回の参議院選挙の結果に愕然としたことですが、そういう状況がなぜ生じたのかを自分なりに考えようとして、直接時事問題を考えるのではなく、時事問題も含めて、ものの考え方そのものについて考えようとしたのです。それについても、優れたブログはいろいろありますが、そして僕自身、お気に入りサイトでいろんな意見に出会うことを楽しみにしていますが、僕の考え方を発信することも、遠慮する必要はないだろうと思い直しました。そういう訳で、ちょっと自分の出発点に帰ってみたいと思います。
 
    今日のテーマは、このごろ定期的に訪問している、とても論理的で鋭い議論を展開しているブログを読んで少し考えたことです。日本語は論理的じゃないということを言う人が昔からいて、僕はそういうことを言う人のほうが論理的じゃないと思っていました。つまり、自分が日本語を論理的に使うことができないから日本語が論理的じゃないと思い込んでいるのだと考えたのです。
    つまり、日本語が論理的じゃないと思う人の典型は、英語などの外国語が論理的だと思って(思わされて?)それと日本語を対比しているのでしょう。それが本当に対比できているなら、その人は論理が分かっているはずなので、日本語でも論理的に考えることができているはずです。しかし僕の経験だけから言えば、そういう人は論理が理解できていないようにしか思えません。なぜなら、その人は、自分が考えるときに使っている日本語が論理的でないと思っているからです。
    論理的であることがどういうことかということは、必ずしも簡単に理解できることではありません。しかし、論理的でないということは比較的分かりやすいことに思えます。誰かが言っている内容が、たとえば論理の飛躍が感じられる場合、論理的ではないと感じられるでしょう。そういう議論を揶揄して言う形容に「風が吹けば桶屋がもうかる」というものがあります。もちろん「風が吹く」から「桶屋がもうかる」まで一足飛びに飛躍するわけではなく、その間に数段階の(大げさに言えば)議論の展開があるのですが、その議論はどれも帰結を必然的に導きだすものではないのです。たとえば、猫がネズミを捕るものだということが常識である状況を前提しても、三味線に革を使うために殺される猫が、それまでネズミを捕っていたのでないならば、いくら三味線を作ってもネズミが増える結果にはつながらないでしょう。
    そんな飛躍は、このように身近に想像することができる事例の場合には比較的気がつきやすいもののように見えるのですが、これと同じような論理を、経済の専門家というような肩書きをつけた人が、専門用語らしきものを散りばめて展開すれば、一般の人はコロッと騙されてしまうケースが多いかもしれません。そういう詐欺を組織的に行なっているのが今のテレビで、コメンテーターと呼ばれる人たちのうち、けっして少なくない人間が、欺瞞論理の常習犯だと言えるでしょう。なぜそれがまかり通るかと言うと、一つには、こういう論理の飛躍は簡単に気づかれるものではないため、見過ごされてしまうということがあります。
    そういう飛躍にコメンテーター自身が気がついているのかどうかは、とても疑問です。気がついていないなら、そんな阿呆コメンテーターを使うテレビ局はほとんど犯罪的だと言えます。気がついていて言っているのなら、コメンテーター自身も犯罪の片棒をかついでいるのでしょう。いずれにしても、誰も気がついていないなどということは、日本人の知的レベルから言ってありえないことなので、分かっていながらやらせている人がいることは間違いありません。マスメディアの小さくない部分が、そういう詐欺師に牛耳られているということだと思います。

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マスゴミの闇

2009/10/10 00:30

 

    中川昭一元財務相が亡くなられました。痛恨のきわみです。ここ数年間のうちに、日本および日本人にとって功績のあった政治家として、安倍元総理、麻生前総理に次ぐ人であり、将来に期待していただけに、脱力感は避けられませんでした。中川さんのご冥福を祈るのはもちろんですが、そういう功績のある人が、両元総理にまさるとも劣らないバッシングをマスゴミから受けたということには、あらためてマスゴミの底知れない闇を感じます。
    僕が中川さんの訃報を聞いたのは、翌朝のNHKニュースでした。犬HKのことだから予想通りではあるのですが、中川元財務相の功績など報道しません。IMFのストロスカーン専務理事から「人類史上最大の融資貢献」と感謝されたIMF融資など、日本の国益に貢献した功績を報道しないことには、マスゴミが日本の国益を重視していないだけでなく、むしろ敵視しているのではないかとさえ思わされるます。当然報道されるべきことが報道されないことは、それを報道すまいという強い意思がはたらいているとしか思えないからです。
    いや、そういうことはマスゴミの通弊として、慣れたくもないのに慣れてしまいました。しかしマスゴミが「もうろう会見」として執拗に報道した会見のことを、そのニュースでは「繰り返し報道された」と受け身表現で、報道した主体に言及せずに言っていたのです。思わず「報道したのはお前らだろう」と怒鳴ってしまいました。それを他人事みたいに「報道された」とは、無責任きわまりないことです。しかもそのような無責任な報道が、選挙民にも影響をあたえ、今回の落選にもつながったのは疑いありません。その心労が今回の急逝につながったとすれば、マスゴミが殺したと言っても過言でないと思います。
    こう言ってマスゴミを批判していると、負け犬の遠吠えだと揶揄する人もいることでしょう。そういう冷評そのものは、いわば中身のないものであって、気にするに値するものとは思えません。しかし、そういう批評だけを見て判断する人もいるでしょうから、それが当てはまっていないことを示す必要もあることでしょう。一つには、マスゴミに対する批判が的を射たものでなければなりません。そうでなければ、たんに遠くで悪口を言っているだけなので、遠吠えという形容も当てはまるでしょう。この点は、マスゴミが隠している情報をネットなどを通じて知ることによって、黒白がつくことは明らかです。
    もう一つは、負け犬かどうかということです。マスゴミに対する批判が人々を動かす力がない、力のないものであれば、負け犬と言われてもしょうがないかもしれません。今の状況では、マスゴミの力が圧倒的に見えるのは事実です。しかし、選挙前の世論調査として報道された政党支持率から見ると、実際の選挙で民主党自民党に投票した人の比率は、10対8から11対9ぐらいでしかなかったのでした。その違いは、マスメディアのいわゆる世論調査の信頼性のなさを示しているものだとも言えますが、世論調査の対象がマスゴミを信用している層であったのに対して、得票率の中には当然のことながらマスメディアを信頼せずに、インターネットなどで情報を集めた人たちの動向も含まれているのだと考えることもできます。
    そう考えれば、小選挙区制をバックにした民主党の大勝を、マスゴミの前にインターネットが無力であることの証明であると言うことはできません。読売の世論調査が図らずも示したことに、テレビの視聴時間の長い人ほど民主党の支持率が高いというデータがありましたが、これは報道の公正性という点について、明らかな結論を実証的に導くものだと言えます。11対9という比率は、マスゴミがそういう報道をしたにもかかわらず結果として出てきた数字なのです。

    それから、今までに何回か書いてきたことですが、マスゴミの報道のおかしさが分かった人は二度と騙されないようになるということも、ネットユーザがいつまでも負け犬扱いされるものではないことの根拠となるでしょう。マスゴミのように大衆誘導ができないとは言え、不可逆の効果を生む力を、正しい情報の扱い方はもっているのです。ただ、今の状況はまだマスゴミの闇が日本を覆っている状態から脱するところまで達していません。日本の将来を担う貴重な人材をその闇によって失った無念を、マスゴミによって隠されている情報をできるだけ多くの人に知らせることで、少しでもはらしたいものです。多くの人に必要な情報が隠されないような日本の状況にならなければ、中川さんも浮かばれないのではないでしょうか。 

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終わりの加速を止めるために

2009/08/31 02:00

 

     大方の予想どおり、ミンス・マスゴミ連合が大勝利を手にしました。前回の参院選が、日本の終わりの始まりだったと思ったら、それがさらに加速したような印象です。マスゴミは前回の結果に味をしめて、さらに情報統制に磨きをかけました。これからは、自分たちの放送法違反が規制される心配がなくなったので、ますます露骨な偏向報道に邁進することでしょう。レガシー(過去の遺物という意味で)メディアの今までの内容もヒドいものでしたが、これからさらに悪くなりこそすれ、良くなる期待はとうてい持てません。

    選挙の結果は選挙民が責任を負わなければいけないことなので、国民の程度にふさわしい政治家が選ばれたと言われるのは覚悟しています。ただ問題は、有権者にあたえられるべき情報があたえられたかということです。アメリカの大統領選はお祭り騒ぎのような印象で、日本人には馴染まないというか、真似したらいいとはけっして思わないのですが、しかし、有権者に見えるかたちで候補者同士を対決させるやり方は、選挙民にあたえるべき情報として不可欠のものをあたえる、見習うべきやり方だと言えます。
    そういう意味からは、党首討論のノーカット報道をレガシーメディアが拒否したことは、国民の知る権利を侵害した暴挙であり、とりわけNHKは公共放送の義務を放棄したわけですから、これは指弾をまぬかれることができない行為です。しかし視聴者は、レガシーメディアに頼っているかぎり、何を知らされていないかを知るすべはないので、それを知っている人が何らかの仕方で知らせるしか手段はありません。今回の選挙にあたっては、草の根レベルでチラシの配付などが行なわれたようですが、連日のマスゴミのネガキャンには太刀打ちできなかったのだと思います。
    それでは何も手だてはないのでしょうか。実際に結果を出すまでには大変な労力が必要だと思いますが、犬HKの放送法違反番組に対する集団訴訟のような法的手段が一つあります。それからテレビ番組の場合には、視聴者・消費者の立場からスポンサーに意見を伝えることが重要です。広告料収入の減少は、マスゴミにとって最も痛いことですから。それから、地道な口コミも必要ですが、下手をすると人間関係に響いたり、逆効果になるので、ある意味で技術が必要とされます。
    あと、これは僕が財力と時間があったとしたら(非現実の条件文ですが)やりたいこととして、新聞に代わる文字メディアの創設があります。今じっさいに配られている地域情報紙のようなものに、ごく簡単な、有権者として最低限知っておくべき情報を分かりやすく載せるのです。今チラシと番組情報だけを知ろうとして新聞をとっている層に、必要な情報が浸透すれば、情報弱者から少しは脱却できるのではないかという期待があります。もちろん現実には、どの情報をどのように伝えるかは簡単な問題ではなく、編集者はよほどの見識を必要とすることでしょう。ネットを通じて得ることができるような有益な情報を、冷静に、ネットに無縁の人に分かりやすく伝えるのでなければ、効果はあがらないでしょうから。
    予想した結果ですから、絶望していては始まりません。美しい日本の終わりの終わりを迎えないためには、これからの行動が大事だと思います。今情報をあたえられていない人たちが、黙っていても真相に気づくなどという甘い期待は幻想にすぎません。これからは腐れマスゴミとの情報戦争だということを肝に銘じたいと思います。

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選挙の憂鬱

2009/08/25 13:00

 

     今朝、選挙区の社民党候補がマイクでしゃべっているのに出くわしました。当然のことながら通行人にまったく無視されていましたが、耳に飛び込んで来た言葉に「自民党民主党という二つの保守政党』(ではダメなので社民党が必要だ) というのがありました。えっ民主党が保守だって?とぶっ飛んでしまった次第です。それならどうして社民党と連立しようとしているのでしょうか。自民党が保守かどうかが疑問になる側面はたくさんありますが、少なくとも麻生さんの姿勢は穏当な保守そのものです。民主党の中味が旧社会党の残党プラス自治労や日教組などの左翼組合勢力で、それに旧自民党の金権政治グループがあたかもフタのようにかぶさっているという実態が、巧妙に隠されているのには、空恐ろしい危機感を感じます。ネット上ではそのような危機感が共有され、口コミやチラシなどで情報を広めようとしている人も、前回の参院選に比べて増えたような印象を受けますが、テレビ+新聞の圧倒的な洗脳能力に太刀打ちすることは難しいと感じます。

    選挙の前評判と結果が大きく異なった例として、1992年のイギリスの総選挙を思い出します。世論調査では、ノック党首率いる労働党が圧勝すると予想されていたのですが、蓋をあけてみると、メイジャ首相の保守党が勝ったのです。単純に言うと、世論調査は保守党に対する不満が蓄積していたことを反映していたのに、実際の投票行動は、労働党に対する不安が表に現われたのだろうという分析が当たっていたと思います。60年代の労働争議が盛んで英国が経済的に沈没しかかっていた時代を思い出した人も多いのではないかと言われていました。
    どっかの知事だか誰だかが、自民党は不満だが民主党は不安だと、利いた風なことを言っていました。実際に政権を担当したら、誰かが不満をもつような施策を行なうことも避けられないことでしょう。それに対して、実績がないところに生じる不安は、漠然としたものになりがちです。しかし、民主党の政策に対する不安は、漠然としたものではありません。政策INDEXにあるような本心を隠したマニフェストだけ見ても、とうてい明るい将来を想像できないものです。ちょっと表現が控えめすぎました。先行き暗いものばかりと言っていいでしょう。
    まず、危険な国に囲まれている日本を守る国防についての政策がありません。今までの国会での振舞いから判断して、日米安保や自衛隊について否定的だということを隠しているから、何も出てこないのでしょう。彼らのなかに九条カルトの信者がいっぱいいて、上層部もその人たちを抑えることができないことの現われでもあります。こんな連中が政権を握ったら、日本という国そのものの独立・存続が危ぶまれるというレベルの話です。だから麻生さんが日本を守ると強調しているのは、この上なく重要な争点なのですが、マスゴミが日本のおかれた危険な状況を報道しないことと、国民も国防の問題を身近に感じない平和ボケに陥っていることから、アピール度が低いままに留まっているのではないかという印象があります。
    教育についても、財源が疑問だらけの子供手当ぐらいしかありません。日教組と手を組んでいるわけだから、その教育方針を書いたらよさそうなものですが、それでは昔の社会党と変わらないということが国民にバレてしまうので、書けないのでしょう。この点は、ほかの危険な政策とともに、偽装に過ぎないと東京都議の土屋さんが正当に指摘しています。土屋都議は民主党に所属しているのにまっとうな批判ができるということは、一縷の希望をいだかせてくれますが、党の上層部が無視することに絶望を感じます。とにかく、一生日教組とともに歩むと明言している輿石参院議員が牛耳っている現状では、まったく教育政策に期待することはできません。
    もう一つ、大事な問題として経済政策があります。麻生首相のもとで思い切った景気対策が行なわれた結果、4〜6月期のGDPは、年率換算で3%以上の上昇に転じていますが、ここで政権交代が起これば、経済面でも大打撃を受けるでしょう。一つは、民主党が補正予算の執行を停止するなどと言っていることが大きな脅威です。彼らの実績としては、衆議院を通った景気対策関連の法案の審議を参議院で拒否しまくって、景気対策を遅らせたことが燦然と輝いていますが、それだけでも、彼らが国民の生活のことなど考えていないことが明らかでしょう。それに、もう一つの問題として、マニフェストに書かれている政策が、どれも景気浮揚につながらないということがあります。
    さらに大きな不安が、マニフェストにではなく政策INDEXに書かれていることからは生じてきます。そこにあるのは、日教組や自治労、民団や解放同盟、朝鮮総連といった勢力との強力な連携、というよりは、民主党を通じてそういう勢力が日本を支配するための施策が並んでいるのです。それを隠しながらのマニフェストであるということが、最大の不安だと言っていいでしょう。
    それでは、このように現実の大きな不安をかかえている党が、かつてのイギリスの総選挙のように、その不安のために敗北するということはありうるでしょうか。それは不可能です。その理由として、ほとんどの人が民主党政策の不安を知らされていないことがあげられます。それは、一つには日本のマスメディアが不偏不党をうたい文句にしながら、そのじつ組合や特ア勢力に支配されたような報道しかしていないからです。さらには、日本人のマスコミ依存度が高いからです。不満はムードだけでもどんどん増幅させることができます。不安は、不安材料を隠されたらいだかれることはありません。マスゴミは参院選のとき以上に一方的なムードづくりに邁進しています。その異常さに人びとが気づくには、痛い思いをするしかないのでしょうか。

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情報弱者とマスゴミ

2009/07/13 21:55

 

     衆議院選の前哨戦と喧伝されている都議会議員選挙で民主党が圧勝しました。党代表の二代続けての献金スキャンダルや、現代表の日本人より外国人を優先する発言など、さまざまな問題をかかえている党に、これだけの信任をあたえた都民の眼は、おそらく節穴が多いのだろうと思わされます。少なくとも、大多数の都民は、一部のネットユーザーが好んで使う情弱という形容があてはまる人たち、つまり情報弱者なのでしょう。インターネットでみずから情報を漁ることもなく、新聞やテレビの流す情報を疑うことなく受け入れる一方の人たちが、そんな形容で呼ばれるわけです。

    しかし考えてみると、マスメディアの流す情報だけを受け入れていたら情報弱者になるというのは、異常な事態にほかなりません。それは、マスメディアの情報が異常にかたよっていることを意味するからです。民主党の不利になるような情報はいっさい報道しないか、あるいはアリバイ作りに目立たないかたちで伝える程度にとどめて、首相のネガティブ・キャンペーンはしつこく繰り返す、そのやり口を少し見るだけで、それ以上付き合うのはゴメンこうむりたくなるのですが、テレビ中毒の人は、最初我慢していると、だんだん無感覚になり、そのうち無意識のうちに首相をおちょくるようなギャグを口にするようになる、そんな人がよく眼につきました。
    しかし落ち着いて考えてみれば、漢字の読み間違い(なかにはメディアの勘違いで読み間違いにされたものもありました)や、ホテルのバーでの飲食(どこが問題なの?と今でも思う)など、どうでもいいことで麻生さんをけなしていた連中は、首相の政策を批判できないから、そんなイメージ戦略に走ったのだということは見え見えです。景気対策についても、全体については報道せず、ほんの一部の定額給付金を問題にして、評価するかというアンケートに「しない」と答えた人を給付金に「反対している」というまやかしを加えながら攻撃していました。一事が万事この調子なので、まだ例がいっぱいあるのに、息切れしてきます。
    こういう不報道の虚偽は、国内問題だけにかぎりません。去年のチベット問題もそうでしたが、中国のウイグル問題も、中共政府の意向に添った情報だけを一方的に垂れ流すメディアがほとんどで、日本にはジャーナリストなんて殆どいないんだなと思わされます。まずウイグル人の「暴動」という表現そのものが実態に即していると言えないし、犠牲者の数を新華社の伝える数字をそのまま伝えているのも、中共の情報攪乱のお先棒をかついでいるとしか言えません。それに新華社伝とつけ加えても、新華社が中共政府の御用機関であるという情報があたえられていなければ、典拠があたえられたために信頼性を増したと受けとめる人も少なくないでしょう。
    そんなマスゴミ対策に、われわれ一般国民は何ができるのでしょうか。シナ様の犬HKの放送法違反番組に対する訴訟はGJだと思いますが、肝心のメディアがあまり伝えてくれないために、波及効果はネット上に留まっている印象を受けます。訴訟の相手が捏造放送協会であることは、他のメディアの警戒心を呼び起こしているのかもしれません。こういう一方的な報道がまかり通っている原因の一つに、いわゆる椿事件のときにまともな処罰があたえられなかったことがあると思います。そこで、放送法違反の番組を放送したテレビ局が罰せられなかったことが、国民の知る権利を侵害したという訴えを起こすことができないでしょうか。この場合訴訟の相手は、メディアではなく総務省ということになりますが、罰せられる可能性が見えてくれば、メディアも少しは配慮するようになるのではないかと思うのは、……やっぱり甘いかもしれませんね。しかし、まったく実害がないかぎり、前回の参院選で味をしめたマスゴミ・ミンス連合が自制するということはありえないと思うのです。

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誰のための報道か

2009/05/06 12:15

 

     先日たまたま関西の大手外食産業の経営者の話を聞く機会がありました。その中に「マスコミ不況」という言葉が出てきたのが印象的でした。不況だ、不況だと言われているけれども、今年の中頃から景気は上向いてくるのではないかとも言っていました。お客さんを相手にする商売ですから、実感の裏づけがあるのだろうと想像します。それと同時に、不景気だとしか報道しないマスメディアは、いったい何を考えているのかという疑問が頭をもたげてきました。少なくとも、国民のためを考えているようには見えないからです。

    前々回とり上げた、台湾人の心を踏みにじったNスペの番組でも、インタビューで得られた情報の半分を徹底して切り捨てたことが、インタビューされた人の抗議によって明らかになっています。これは、僕が不報道の虚偽と呼んでいるものに相当しますが、これを糾すのが難しいことは、李登輝友の会の抗議と討論会申し入れが拒絶されたことにも現われています。犬HKの返答は、番組に偏向はないというものですが、こんなことを言ってもお咎めがないからと安心しきっているのでしょう。偏向という概念が相対的なものであることを逆手にとっているわけですね。左から見ればなんでも右になるというわけですから。しかし、それでは公共放送が不偏不党であるべしという理念そのものが有名無実となってしまうことでしょう。というか、そうなって久しいわけですね。
    さらに悪質なのは、事実に反するナレーションを随所に入れていたことです。これは事実でないことを報道する虚偽ですから、これが明らかになれば言い訳がなりたたなくなるでしょう。その点について、日本の前途と歴史教育を考える議員の会が、イエス・ノーを含む選択肢つきの質問状を送ったのはGJだと思います。質問状全文は、阿比留記者のブログで読むことができます。どういう回答が返されるのか、あるいは知らぬ存ぜぬを決めこんで返答しなかった場合、歴史教育議連がどういうリアクションを起こしてくれるのか、期待されるところです。
    問題のNスペシリーズの2回目は、そこまで明からさまな捏造はせず、目立たないかたちで必要な情報を隠したり、最後に無理やり変な結論みたいなことを(エセ?)学者に言わせたりと、突っ込まれにくいような印象操作に終始したようです。犬HKの印象操作は日常茶飯事なので、今さら驚きませんが、これで受信料をふんだくろうという根性は許せません。この思いが、最初に述べた疑問と結びついているのです。
    以前にも書いたのですが、僕の考えでは、反日イノチの確信犯が一定の割合いて、残りのほとんどが、戦後の洗脳がとけないままか、深く考えないでされているだけの人だろうと思います。前者の連中は、法的に裁かれるような事態にでもならなければ変わることはないでしょうから、後者の人たちが目覚めることがなければ、マスコミが本来の仕事をするようにはならないでしょう。その可能性を実現させるためには、メディアにいる少数派の良心的な人々に期待するだけでなく、われわれ自身も、いろいろなアクションリアクションを通じてはたらきかける必要があると思います。

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叱責と体罰の間に

2009/05/02 00:45

 

     ちょっと日にちが経ってしまいましたが、平成14年に臨時教員(男性)が、当時小2の男児を叱責(しっせき)した行為が体罰だとして裁判に訴えられていた事件に対して、最高裁が原告の請求を棄却する判断を示しました。1、2審の判決は体罰を認定して損害賠償を命ずるものだったのですが、それを破棄したわけです。以前の判決で認定されている事実は、この教員が休み時間に女子児童をけった男児らを注意したところ、男児が教員の尻もけったので、胸元をつかんで壁に押しつけて「もう、すんなよ」と叱ったというものでした。これが体罰に当たるかどうかが争われていたわけです。

    学校教育法(第11条)の規定では、校長および教員は教育上必要があると認めるときは児童らに懲戒を加えることができると定められていますが、それには「ただし、体罰を加えることはできない」という但し書きがついています。問題は、体罰であるか否かにどうやって線引きをするかです。もちろん昔のことですが、僕が習った先生にも、叩いたりする人がいました。たたくと言っても千差万別で、歯を食いしばらせてビンタを食らわせるのも叩くと言えるし、君ちょっとと言って肩をチョンとやるのも叩くと言えます。拳で殴るのはもちろん、ビンタも体罰だと言われるのは納得できても、教師が注意して身体に触れただけで体罰と言うのは明らかに行き過ぎでしょう。
    ネットでニュースを拾っていると、先生に同情したくなるケースが目につきます。それは、一つには体罰の定義がない、あるいは曖昧だからでしょう。教育上の懲戒の意味をこめて身体に触れた場合はすべて体罰と見なすような拡大解釈をしているのかなと思わされます。これでは教育現場は混乱するばかりでしょう。というより、混乱を避けて教師は事なかれ主義に走り、子供たちは必要な教育を受ける機会を奪われてきたと言って過言ではないような状況も多々あったように見えます。
    僕なんかの世代では、体罰と言ったら、かなり過激なアクションしか思い浮かびません。それこそ拳骨で殴るとか、往復ビンタを食らわすとか、そこまで行ったら行き過ぎかなと思います。それを規制することは教育熱心な先生でも反対しないでしょう。しかし、さすがにマスゴミは違いました。
    ニュースについては、報道各社のサイトにそれほど大きな違いを見つけることはできなかったのですが、コメントにはその社の性格がどうしても反映してくるようです。たとえば変態新聞で検索するとトップでヒットしていた(今現在については未確認)新聞社のウェブページでは、拡大解釈は許されないと書かれていました。この場合の拡大解釈というのは何でしょうか。想像してみるに、教育的な配慮があるからと言って何でも許されるわけではないということかもしれません。しかし判決は教育的配慮だけでいいとは言っていなくて、行為の目的や態様、継続時間という理由ですから、指導の仕方にも考慮を加えているわけです。
    その新聞社のウェブページには、体罰についての役所の見解も載っていました。
 
    体罰について昭和23年の法務庁長官回答では、「懲戒の内容が身体的性質のものである場合」と定義。文部科学省は平成19年2月に体罰基準を見直し、肉体的苦痛を与えるものでない限り放課後の居残り指導や授業中の教室内での起立命令を体罰としない−と全国の都道府県教委などに通知した。しかし、基本的には昭和23年の枠を出ていない。
 
    だいたい、懲戒の内容が身体的性質のものなんて、定義にも何にもなっていない、変態新聞が心配するのと逆の拡大解釈を助長するだけのものでしょう。文科省の「肉体的苦痛」だって、苦痛を受けたと言えばそれまでのことです。それがモンスターペアレンツの風潮を助長し、真面目な先生を追いつめ、日教組べったりのサボり教師を甘やかしたのだと思います。
    このエントリを上げようと思っているうちにも仕事の都合でアップが遅れ、その間に4月30日付の産経抄にこの話題についての見識ある記事が掲載されました。そこで紹介されている京丹後市の市立小学校のエピソードは感動的です。

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NHKと犬HK

2009/04/13 02:05

 

     前回のエントリで、NHKで「南の島に雪が降る」が放送されたことに触れました。そのあとでも、けっこうためになる歴史ドキュメントなどが放送されたことが記憶に残っています。けっしてあのころは日本反日協会ではありませんでした。だから、戦後のWGIPの体制がそのまま残っているという捉え方は、間違いではありませんが、正確とは言えないでしょう。むしろ左翼運動の、70年安保をターゲットにした活動の挫折を経て、戦術転換をしたあとの変化が、今の犬HKを形づくっていると思います。

    少なくとも、この頃のNHKのことを僕が犬HK(とか犬アッチ行けとか)と表記するのは、もはやかつてのNHKとは同じものではないと考えるからです。日本の立場ではなく、どこか別の国の立場を代弁している、つまりその国の犬あるいは狗に成り下がっていると思うからです。ラジオをちょっと聞くだけでも、何でここで中共の放送局の人が、綺麗ごとの中国事情を言わなければいけないのかなどと、疑問が百出するのですが、今回また目に余る不祥事がありました。
    NHKスペシャル/シリーズ・JAPANデビューというのが問題の番組です。その番組でインタビューを受けた台湾人のお爺さんが、自分の発言の一部だけを歪曲して使われたことに対して怒りを表明していることが、台湾は日本の生命線!というブログで明らかにされています。ブログの記事だけで「明らか」と言うのは軽率ではないかと考える方は、そのインタビューを受けた柯徳三さんの『母国は日本、祖国は台湾』(桜の花出版) を読んだら、納得することでしょう。以前このブログで紹介した、蔡 焜燦さんの『台湾人と日本精神−−日本人よ胸を張りなさい』と、基本的に同じ方向です。
    柯さんは、狗HKの番組に疑問を感じた人の日本からの電話に「NHKのバックには中共がいるのだろうか。NHKは中共にブレーンウォッシュされているのだろうか。それとも遠慮しているのか」とまで答えています。残念ながらこの番組を作った人は、柯さんの懸念の通りの人でしょう。そして、そういう人が犬HKのかなりの部分を牛耳っているように見えます。あと捏造韓流の連中もいるようですね。こういう事情を見ると、犬HKの受信料を払うのは、反日活動に加担することだと思えてきます。
    人権云々する(しかし必ずしも人権を擁護しない)連中は、良心的兵役拒否という言葉を好んで使います。彼らを見習うことなんかしたくありませんが、犬HKに対しては特亜に対するのと同じ対応でないといけないと思うので、パクリでも何でもいいから、良心的受信料支払拒否という言葉を使いたいと思うのです。要するに、受信料不払い運動と言ってもいいかもしれません。反国家的、反日本的行為にお金を支払うことを拒否するのは、日本国民としての責務でしょう。
    こういうことを言うと、受信料は法律で定められているから、不払いは法律違反だと言う人がいます。それを考えて良心的兵役拒否を引き合いに出したのです。徴兵制は兵役が法律で定められているのだから、兵役拒否は明らかな法律違反です。それを擁護する人々は、法律以上の何かに価値を認めているのでしょう。連中が何に価値を認めているかなんて知りたいとは思わないけれど、法律以上の価値が国家の存立にあるのは確かです。法律の権威を保証するのが国家であるのに、法律を闇雲に守った結果国家が滅んだら、ビートたけしの「手を上げて青信号で死んでいた」と同じことになるでしょう。
    日本人ほど遵法精神の強い国民はいないということは、いろんな国の国民を見たり話ししたりいれば分かることです。それを悪用する特亜の連中は法律など歯牙にもかけていないと思います。自分たちは守らない規則を日本人に守らせて得をしようという奴らです。犬HKも全然撰ぶところがありません。公正な報道をしなければいけないという法律は無視しまくりで、それなのに大人しい日本人に対して受信料を強制しようとしているのです。しかも、受信料は法律で強制されているわけではありません。犬HKが根拠としている、放送法 第32条(受信契約及び受信料)第1項を引用しましょう。
 
    協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。ただし、放送の受信を目的としない受信設備又はラジオ放送(音声その他の音響を送る放送であって、テレビジョン放送及び多重放送に該当しないものを言う。)若しくは多重放送に限り受信することのできる受信設備のみを設置した者については、この限りでない。
 
    この法律で義務とされているのは、NHKとの受信契約です。もちろん受信料の支払いは、契約していなければ必要ありません。放送の受信を目的としない受信設備というのは、文脈上NHKの放送の受信を目的としないという意味にとれますから、犬HKの放送を見たくない人には、契約の義務すら生じないわけです。見たくない理由を聞かれたら、反日報道を理由にしてもいいでしょう。もちろん、理由を言わなければいけないという根拠はないと思います。

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